私は、1965年に徳島県の片田舎で未熟児として生まれ、5歳で失明しました。視力があった頃の記憶を振り返りますと、我が家の周辺を走り回ったり、妹や近隣の子供たちとも活発に遊んでいました。人の目には、よくある当たり前の光景として映ったに違いありません。
 7ヶ月で生まれたので、生後2ヶ月間保育器に入っていましたが、その間、網膜の損傷が進んでいたことは誰も気づきませんでした。それは、適量を超す酸素供給に原因があったようですが、それも数年後に判明したことです。5歳前後までは弱視ではあったものの、生活には不自由しないだけの視力がありましたので、むしろ何の治療も施さず、現状維持のままということにしておけば、おそらく、今でも、普通に読み書きができる程度の視力は残されていたと思います。
 しかし、5歳前後にある人に紹介されて眼科を受診したところ、多少の危険性を伴うが、保険適応外で効果的な療法があると知らされ、両親は迷わず担当医にその治療を受けたい旨申し出ました。幼少児にはかなりキツイ薬だったようで、私は今でもそのときの注射の痛みだけは覚えています。さすがに、即効性があって驚くほど視力は回復しました。 しかしその喜びもつかの間、これまた保育器の酸素同様、適量を超す投与のため、網膜に過剰な負担をかけ、再生不可能な剥離を起こしてしまったのです。医療ミスによってダブルパンチを浴びせられた網膜は、その後、現在に到るまで、物の形を映し出すことはありません。それでも、失明直後は、わずかの望みをかけて、各地の眼科を受診することに専念しました。

 ある時、有力な眼科医から「すでに手遅れであり、視力の回復の見込みは0(ゼロ)に等しい」と告げられ、両親はショックを隠しきれない様子でした。だからといって、簡単に引き下がれる問題でもありませんので、母親は無我夢中で神仏にすがり始めました。他の人から、どこそこの拝み屋はよく効く、という類の噂を耳にするや否や、私を連れてあちこちと訪ねたそうです。しかし何のご利益もなく、かえって不安と焦りと苛立ちが募るばかりだったようです。親であれば、我が子を窮地から救うために、色々と手を尽くそうという気持ちはわかりますが、他にもっと良い方法はなかったものかと少し悔やまれます。
 人間は不幸のただ中にある時、どうしても人の誘いに心が迷いやすいようですが、母も近所の人の誘いで、とうとう怪しげな宗教団体に正式に入会してしまったのでした。最初は良いもてなしを受けましたが、徐々に裏側が見えるにつれ、それが見せかけだけであることが分かってきたそうです。実は、その宗教団体は、巧妙な手口で多くの人を引き込んでは金銭を巻き上げる、キリスト教に似せた性質(タチ)の悪い団体でした。そこへ私も通っていましたので、その頃の様子は何となく記憶の片隅に残っています。残念ながら、我が一家の道しるべとなってくれるような、良き相談相手とも巡り合えず、どんどん悪い方向へと傾きつつありました。母も、その宗教がどこかおかしいことに薄々と気づいていたようですが、その思いを否定する力の方が上回っており、しっかりとのめり込んでいきました。

 その頃、両親は商売のトラブルや宗教絡みのイザコザで、絶え間なく夫婦喧嘩を繰り返し、急速に家庭崩壊が進んでいました。金儲けを身上とする父親と、信心に身を任せる母とは、所詮折り合いがつかず、どうしようもない状況に陥っていきました。とうとう短気な父は、力ずくで母を家から追い出し、やがて両親は離縁してしまったのです。なぜそのような結末を迎えたのかは、当の本人でなければ、本当の理由は分からないのでしょうが、しかし、どのような事情があったにせよ、間に挟まれた子供は被害者なのです。後に残されるのは悲しい思い出だけでした。
 実の母が不在となり、間もなく同居するようになった、見知らぬ女性を、母の代わりとしなければならなかったのですが、私にとっては、そう簡単に受け入れられるはずがありません。さらに辛かったことは、通っている学校が自宅から離れているという理由で、寮生活をさせられ、本当に親の愛情を注がれるひまもなく、大切な少年期を過ごさなければならなかったことです。というのは、私はどうしても寮生活が嫌だったからです。身勝手な父親に対する不信感が募り始めたのもこの頃からでした。家庭内に他人が入ってきたヨソヨソシイ雰囲気に馴染めず、やり場のない思いをどうすることもできず、かといって継母にそんな胸の内を打ち明けることもできず、悔しい思いでいっぱいでした。
 それでも学校の教師の幾人かは、このような我が家の家庭事情に心を痛め、親身になって相談にのって下さったことは慰めでした。また音楽によっても、ある程度、その満たされない心を埋め合わせてはくれたものの、一時的なものにすぎませんでした。そうは言っても、見ることで楽しみを得られない私にとって、音楽だけが心の拠り所となったことは今から考えますと、ごく自然の成り行きだったように思います。また、音楽教諭から定期的に指導を受けるようになってからは、よりその楽しさを実感できるようにもなりました。そしてだんだんと上達するにつれ、自分にも出来ることがあるという自信をもてるようになっていきました。家庭内での悲しい出来事で深く傷つけられていた私にとってそこから立ち直る意味でも、そのような自信はプラスに作用しました。

 やがて、私が高校生になったとき、健全なキリスト教に接する良い機会を与えられました。熱心なクリスチャン教師が転任してこられ、運良く、私のクラス担任となりました。高校生という好奇心旺盛な年頃でもあり、また若さゆえの純真さをも相まって、そのクリスチャン教師から、興味深い多くのことを吸収していきました。特に、世の貧しい人々に仕え、キリストに生涯を捧げた多くの信仰者の話を聞かされたように思います。何よりも、それらを通して、神の子であるイエス・キリスト御自身の愛について語って下さいました。また政治や教育、福祉や医療に至るまで、まずこのイエスの愛の業が根底になければ、真の目的を見失ってしまうことをも指摘され、そこにこそ、他に見られない真の精神が流れているのではないかと、強く意識し始めたのです。
 さらに、先生の教育に対する熱心さ、誠実さ、そして謙虚な祈りの姿勢と、自己犠牲を厭わない勇気ある行動を目の当たりにして、他の教師にはない力を感じ取ったことも事実です。ともかく、普通では考えられないほど、キリスト教色を前面に打ち出して教育される方でした。後に、その事が原因で転任させられたという事実からみても、本気で、キリストの真理を生徒に伝えようとしていたことが分かります。このように、自分の立場を犠牲にしてまでも、キリストを宣べ伝えようとしていた姿勢に、私の心も動かされていったと思います。また先生からお誘いを受けて、何度か礼拝や集会にも参加し、そこで、音楽は神を讃美するためになくてはならないものであることや、歴史的にみても、キリスト教と音楽は切っても切れない関係にあることを知りました。
 その経験が、信仰の第一歩を踏み出す確かなきっかけとなったのです。先生ご自身も、私に与えられている音楽の賜物を伸ばし、将来は神様を讃美するために用いられるようにとの願いを、常に持っておられたようです。私自身も、以前から音楽の専門コースへ進みたいとの思いはありましたが、情報不足の上、母校の徳島盲学校では前例もなく、一体どこからどう手をつけたらいいものかと思案に暮れていました。何しろ、全ての生徒が、同一の進路を選択しなければならないという特殊な状況下にあり、その中で、私のみが異なる進路を選択しようとしていたのですから、指導教諭からみれば、厄介な生徒であったに違いありません。それでも根気よく、多くの人と相談した結果、最終的に自分の意志で状況を決意したのです。そんな中で、クリスチャンの教師だけは、私の希望が叶えられるよう協力し、祈ってくださいました。それだけでなく、先生の自宅で冬休みの15日間、泊りがけで世話になって、受験の個人指導までしていただいたのです。多忙にも拘わらず、私のために無償でこのような取り計らいをして下さったことは、本当にお礼の申し上げようもありません。

 1984年4月、いよいよ郷里を離れ、新しい環境での学生生活がスタートしました。そこは盲学校の中では唯一の国立の機関であり、それだけに、設備やスタッフ面においても充実していました。全国各地から集まってきた仲間との共同生活によって、多くの示唆を与えられたことも確かです。だんだんと都会の雰囲気にも慣れ、ピアノを中心とした日々の学習も軌道に乗ってきました。それらの学びにおいて、理解ある教師が、私の能力に応じた指導をしてくださったので、短期間とはいえ、充実した学びができたことは幸いでした。まず一つの区切りとしてこの2年過程の専攻科音楽科を終了し、さらに大学へ進学することとなりました。
 入学が決まった都内のM音楽大学は、かなり以前から点字受験を認めてはいたものの、入学後のサポートはなく、殆どが学生任せということなので、教材の準備をはじめ、その他、色々な日常の煩わしさを思うと、とても不安でした。私を取り巻く環境の変化に、果たして対応出来るのだろうかと悩んでいました。それは普通に育ってきた健 常者の学生にとっては、想像し難い特殊な事情かもしれません。とりわけ、私のような全盲学生は、多くの場面で他者のサポートを必要としますので、より良い人間関係を保つために気を配らなければならず、緊張していたように思います。
 そういう訳で、入学当初は私自身も戸惑いがあり、周りの人々も私にどう接したらいいのか分からず、互いのやり取りにぎこちなさが目立ちました。そして、障害者に対する無理解からくる、あらゆる誤解や、すれ違いなどにも苦しみました。また、お互いに育ってきた環境の違いから、同年代の友達と話が合わず、自分だけが取り残されているかのような寂しさを味わったこともよくありました。しかし、彼らと過ごした寮生活は楽しい思い出でもあり、以前にもまして、広い視野で物事を見つめていけるようになったという意味では、得難い貴重な経験でした。

 「なぜ、神はこのような不公平をお赦しになるのだろうか」、という疑問をもち始めたのも、ちょうどその頃からでした。そのように心が沈みがちだったころ、高校時代の、あのクリスチャン教師から、数回に渡って励ましのお便りが届きました。そこには、イエス様のことを忘れてはいけないこと、讃美をすること、信仰から遠ざかってはならないことが綴られており、さらに、あなたのことをみんなで祈っていると毎回書き添えられていました。
 一方、FEBCのキリスト教放送から流れてくるメッセージや讃美を、ひとり静かに聞いていると、心に慰めと安らぎが与えられ、次第に落ち着きを取り戻していきました。さらに、点字で出版されている信仰書にも触れ、それらを読み進むうちに、何度も涙を流すこともありました。また、視覚障害クリスチャンを中心とした集会や、クリスマス会に参加する機会があり、彼らの生き生きとした証しに接し、それまでのモヤモヤとしたものが薄らいでいくのを感じました。そのとき、視力の有無というような表面的なことが問題ではなく、ありのままの姿で、与えられた賜物を用いていくことだと教えられ、力づけられました。次第に私にも希望の光がもたらされ、与えられた音楽の賜物を用いていきたい、との願いを持つようになりました。

 その後、神様は私のために必要なものを備えて下さり、その時々にふさわしい出会いを御用意くださいました。中でも、沖縄出身の福音歌手との出会いは印象深いものでした。何度か彼のコンサートを聴く機会があり、音楽がこれほどまでに人の魂を揺さぶるものであったのかと驚かされました。同じ視覚障害というハンディキャップを負いながら、音楽を志す者として、大いに勇気づけられたことは確かです。特に私の場合、珍しいケースとして、ピアノ演奏のみならず声楽の賜物をも与えられたことは感謝であり、それにより、讃美が一層豊かなものになると思うのです。

 私のこれまでの歩みにおいてマイナスとしか思えないことも、生きて働かれる主が、プラスに変えて下さるという素晴らしい恵みをいただいてからは、物事を前向きに捉え、「ただ神のみ業があらわれるため」に、ひたすら主を信頼して歩み続けたいと願っております。

 この私の罪のために十字架上で血を流し、死に至り、三日目に甦って、今も生きて働かれる主イエスをお迎えしてからは、決して孤独ではないという思いに満たされました。その思いは、以前は経験したことのない感動的なものでした。こんな私でさえ、主に愛され、生かされているという喜びが湧き起こってきたのです。そして、神様からの最高の贈り物である音楽を用いて、救いの証しと讃美をすることの大切さを最近強く思わされます。

 たとえ、肉体の目が見えていても、真に見るべきものを見ていないとしたら、決して救いの恵みに与ることはできません。今現在、私の目は見えませんが、それだからこそかえって見えてくるものや、逆に、他者に与え得るものもたくさんあることに気づかされ、感謝です。また聖書にも、必ず神の永遠の御国が成就するとありますので、そこに加えられたその日には、この目で主イエスにお会いできるという、大きな希望を抱いておりますし、その信仰に支えられて、何事も乗り越えてこられたのだと思います。
 この真の愛と希望がたっぷりつまったイエス・キリストの福音を、一人でも多くの方に信じていただきたいと願っております。

 1993年のイースターに、連れ合いともども、バプテスマ(洗礼)の恵みに与ることができて、感謝でした。以後二人で各地を巡回伝道しておりますので、そのことも合わせて祈りに覚えていただけるなら幸いです。思えば、信仰の第一歩を踏み出してから、なんと10年以上も経過してから、二人揃ってバプテスマ(洗礼)を受けることができました。恐らくこのことにも深い意味があり、神の御配慮があってのことだと信じております。



※メッセージ・・・キリストの福音を、分かりやすくお伝えします。初めての方に、聖書や教会にもっと興味をもってもらえるような親しみやすい話や、救いの証を語ります。柔らかい語り口の中から、湧きあがる喜びと信仰を通して、聴く者の心に響くメッセージを伝えます。

※讃美・・・よく知られた讃美歌やゴスペルソング、独唱讃美歌などを、簡単な曲目解説も入れながら讃美します。メッセージの合間に歌うことで、より伝わりやすく、魂に響く讃美となって、悔い改めの思いを湧き起こすことでしょう。

※ピアノ独奏
・・・メッセージや讃美歌などの合間に、クラシックの名曲などを簡単な曲目解説をしながら独奏します。コンサートの雰囲気が変わり、時には心和ませ、時には緊張感をもたらし、聴く者の心に変化をもたらします。

(注)よく行く先々で「ピアノの弾き語り」と間違われますが、上記のようにピアノはクラシックの名曲を独奏し、歌はピアノ伴奏に合わせて歌いますので、お間違えのないようにお願いいたします。 ですから、「ピアノのある所」でないとコンサートが出来ません。オルガンはもちろんのこと、電子ピアノも演奏には適しませんのでご理解ご了承くださいますようお願いいたします。
 神様の恵みによって与えられた音楽の賜物で主イエス・キリストの御業を讃美し、福音に生かされている喜びを証しさせていただければと願っております。混迷した現代社会に生きる人々に対し、イエス・キリストにある愛と希望と信仰を伝えたく、熱い思いを抱いております。 また、ジャンルや演奏方法にも工夫を凝らし、多くの人々の心に訴えかける讃美を目指しております。 是非、この機会に教会の年間行事予定に組み込んでくださいますよう、ご検討願います。


 現在までコンサート活動を続けてこられたことは、ひとえに多くの方々のご理解とご協力の賜物と、感謝しております。全国各地で、讃美を通して福音の恵みを証しさせていただいておりますが、いつも、困難な状況を切リ開いてくださった神様の大きな御愛を感じながら、お話しさせていただいております。

 これまでの私自身の体験をもとに、命の尊さ、生きることの喜び、苦しみと悲しみの中で培われた明るさとこだわりのなさ、といったようなものをピアノ演奏や讃美、語りかけを通して、聴衆の皆さんに訴えかけ、自然な形で福音の真髄にふれていただけるようなスタイルで、これまで行ってまいりました。

 人間関係が希薄化し、心がとりとめもなく揺らいでしまう現代社会の中にあって、やすらぎと潤いを与えてくれる音楽の果たす役割は、たいへん重要です。ささやかな私の信仰から奏でられる音色が、悩める魂のひだに深く刻まれ、明日への活カを生み出してくれることを願っております。そして、さらに、キリストを信じる信仰へと導かれるなら、そのことにまさる喜びはありません。音楽こそ、ノンクリスチャンと教会を結ぶ掛け橋として、神様からいただいた素晴らしいプレゼントだと確信しているからです。

 そして全盲というハンディキャップを負いながらも、主を讃美し、証しさせていただいているその力の源を、一人でも多くの方にお伝えできればと願っています。



             チャペルコンサートを計画している教会関係者の皆様へ・・・。
 
 音楽コンサートを開くと、初めての方も教会に入りやすいけれど、その後はなかなか結びつかず、その時だけで終わってしまうことが多い、とお思いの方が多いようです。
 そこで、ただ音楽を演奏するだけではない、しかも一般のコンサートとは違う、゜教会のコンサート″を開いてみませんか?
 音楽だけのコンサートでもなく、お話だけの講演会でもない!そんなチャペルコンサートにしたかった、とお思いの方が多いようですね。
 心にメッセージが直接伝わりやすい歌と、ピアノの独奏曲を、演奏の合間に、救いの証しや福音のメッセージを語りながら、魂の変革をもたらす感動をお届けします。
 老若男女を問わず、聴く者の心に伝わる感動が会場を満たすでしょう。
 キリストの福音を伝えるチャペルコンサートをぜひ教会の恒例行事としてご計画ください。
 近隣の方々への良き伝道の時となるでしょう。
★★証し★★

チャペルコンサート
キリスト教主義学校のコンサートの記録より

先生からの音信より・・・

 『・・(略)・・生徒職員共々、暖かい歌声に聞き惚れました。ピアノの演奏には、驚きと感動を持ちました。そして、何よりも、北田さんの明るい笑顔と穏やかでいて力強い生きる姿は、私たち一人一人に希望を与えてくださいました。その明るさと、力強さがイエスとの出会いによることを知り、生徒たちも本校に学ぶ意味を考える機会になりました。そして、これから生きていく上で、自分もイエスと出会うことを望む生徒の声もあり、神の問題、信仰の問題も合わせて考えることができたようです。感謝です。・・・・・・・・』

生徒の感想文より・・・

 『人間は絶え難い試練にたびたびあいます。高校にはいるまでの13年間、いいかえれば、主イエス・キリストに出会うまでは、これらの試練を憎み、神を疑うことしかできませんでした。しかし、キリスト教に出会ってから変わったと、自分でも思います。
 今まで生きてきて、今と同じくらい愛にはぐくまれてきたのに、私は気づくことができずにいたんだと思います。試練にもちゃんと意味があることにも気づきました。しかし、まだまだ、信仰が浅いし、いつも主に愛されているとは思えず、自分を忘れてしまう時もあります。
 今日はそんな自分の心に深くしみわたるようなお話と歌が聞かせていただけました。この北田さん夫妻との出会い、そして、このようなすばらしい機会が与えられたことに感謝したいと思います。』   

 『・・(略)・・私がもし、全く何も見えなくなってしまったら、深く落ち込み、失望してしまうかもしれません。それなのに、北田先生は、明るくて、力強くて、私よりもずっと幸せに見えました。それは、やはり、キリストに出会えた事が大きなきっかけとなって、口に出さなくても表情に表れてきたのではないかと思いました。 
 私は、今日北田先生に出会えた事で、私にとってのきっかけとなって明るく、強く、今よりもっと頑張ることができる自信が湧いてきました。゛視覚障害″というハンディを自分の中で克服し、一生懸命、音楽とキリストと共に生きている北田先生は、素晴らしい毎日を送っていると思いました。その証拠が、今この感想を書いている私自身の何とも言えない興奮であると言えるのだと思います。』




チャペルコンサートの記録より・・・

2001年6月3日(午後)  無教会 待晨集会  チャペルコンサート

 1994年2月11日、無教会徳島聖書キリスト集会主催のコンサートが伝道集会として初めてのコンサートでしたが、キリスト教への導き手なる恩師が主催とあって、格別深い思い出があります。同じ無教会の群なる待晨集会でのコンサートとあって、何か特別な感情を抱いて迎えた集会となりました。その集会の感想を、会誌「待晨」に実行委員長のT姉が投稿しておられ、今日12月22日、クリスマスカードとともに郵送してくださいましたが、その文章に滲み出た姉の信仰に打たれ、他に紹介したいと思い、掲載させていただきました。


           「待晨」 586号 2001年8月号 より

        静まり返った運動会 
            ―伝道コンサートを終えて―
                                   
 6月3日(日)の午後、待晨会堂に北田康広氏と夫人の陽子氏をお迎えして、伝道コンサートが開催され、7,80名の会衆が平安に満たされたひと時を与えられました。平素お見かけしないお顔も3分の1ほどみられ、中には、買物帰りに立ち寄られたと思われるご婦人もいらしたようです。 コンサートを終えた今、このことを通して見せて頂いた主の御業を思い、主への畏れと讃美の気持ちが溢れてくるのを覚えます。
 私が、北田康広氏ご夫妻に初めてお目にかかったのは、昨年の10月末キリスト同信会主催の伝道コンサートの時でした。私と一人の姉妹が代表で参加し、そこで、30代のお若いご夫妻の力強い歌とピアノ演奏、そして、お証に感動し待晨の方々にもお聴かせしたいと思いました。
 待晨でも年に一度、伝道集会をしておりますが、あまり難しいお話だとご近所や知り合いの方々に声を掛けにくいというお声もあったり、地域に開かれた集会ということを願って長年催してきたバザーが様々な事情で、中断されているという現状もあって、このコンサートを待晨でもやらせて頂けないだろうかというところから話が始まりました。
 幸い、6月3日ならば、ということで引き受けて下さり、1月の世話人会でそれが了承され、4名の準備委員を中心に、着々と?準備が進められました。北田氏が30代ということもあって、ほぼ同年齢の兄弟方が積極的に動いてくださり、うれしく思いました。
 ところが5月に入って、主から「待った!」がかかったのです。6月3日は近くの小学校で運動会だというのです。ということは、晴天ならばもちろん、雨天でも子供たちは来られないということです。また、昨年までの経験から、晴天ならば運動会の騒音で、コンサートはメチャクチャになるかも知れないという可能性もあるのです。そして、ここに至って改めて、
「主催者はお前たちではなく、この私だ!」と、主から示され、主の前に襟を正す思いにさせられました。世話人会でも、主にお任せする、北田氏にも運動会のことはお伝えしないということに決まり、このために集会の皆さんに祈って頂くごとになりました。
 ではどのように、祈ったらいいのでしょうか。雨を降らせて下さいと、祈ればいいのでしょうか。否、そうではない。主がいいようにして下さることを心から信じて、主の御計画が成りますように、主の御心が成りますようにと、祈らせて頂くことにしました。
 さて、当日は、早朝から晴天でした。しかし、不思議なほど私の心は平安でした。朝のうち少しは聞こえていた騒音も午前の礼拝が始まる頃にはぴたりと止み、以後、全く静まり返ってしまったのです。
 とにかく、不思議なほど静かで、「実は、今日は近くの小学校で運動会だということで、皆で祈っておりました」と、開演直前に知らされた演奏者も、私たちと共に主の御支配の下にあることを実感させていただきながらのコンサートとなりましたので、本当に平安に満たされたお顔で演奏し、貴重なお証をして下さいました。
 交渉の段階でピアノの調律をめぐって、互いに主張を曲げようとなさらなかった北田氏と待晨の兄弟も当日は、同じ徳島県出身とのことで、共通の知人もあったことから、半世紀近くの年齢差を超えて、主に在って意気投合されたことも不思議なお導きでした。又、開演直前の会場準備中に机が倒れて、若い兄弟が足に怪我をされたハプニングもすべて、
主の御手の中にあることと信じ、感謝して受けとめさせていただきたく思います。
 
恐れてはならない。・・・・・
主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい(出エジプト14:13,14)。

 人が無力である時、主はその力を示されるということ、私たちは祈りを共にしながら、主がなさることを信じ切って、静かに待たせて頂くとき、主は本当にすごいことをして下さるということを、このコンサートを通して示していただき、主への畏れと感謝の思いに満たされております。

 [付記]
 北田康広氏(36)は、徳島県の御出身で、未熟児網膜症により、御両親の必死の努力の甲斐なく、五歳頃に視力を失われました。幼少の頃よりピアノに親しみ音楽を心の糧として成長し、筑波大付属盲学校専攻科、武蔵野音大ピアノ科を卒業されました。高校生の頃徳島在住の無教会クリスチャン吉村孝雄先生のご指導を受け信仰に目ざめ、その後
東京バプテス神学校神学科を卒業されました。現在は、陽子夫人と共に、教会、学校、福祉施設、ホール等を舞台に、
ピアノ演奏と歌唱によるリサイタルやチャリティコンサートで活躍しておられます。御自分に与えられた賜物を生かし切ろうとされている誠実さに心打たれました。


      ☆☆メッセージ☆☆